GUTSMANとは

GUTSMANとは

修斗第3代ミドル級チャンピオンの桜田直樹が、2000年に東京都世田谷区松原に総合格闘技道場として設立。
道場名の由来は、桜田が現役時代「Mr.ガッツマン」と呼ばれていたため。


2022年、都市計画に伴い、同じ世田谷区経堂に移転し、新たにスタート。
スポーツアカデミーGUTSMANとして、総合格闘技、キックボクシング、柔術を中心に活動。

桜田直樹 青春ストーリー

シューティング(修斗)との出会い

高校野球3年生最後の大会は、県予選1回戦敗退。小学生の時から野球一筋でやってきた割りには、結果を残せませんでした。もう野球には、一度区切りをつけて新しいことに挑戦してみようと思いました。そして唯一野球以外に興味があったのが「格闘技」、それは純粋に強さへのあこがれで、相撲、レスリング、ボクシング、空手、そしてプロレス等もテレビに釘付けになってよく見ていました。

そのころ、初代タイガーマスクで、修斗創始者である佐山聡氏が始めた新格闘技シューティング(後の修斗)の打投極(打撃、組技、寝技)の理論に感銘し20歳の時にスーパータイガージムに入門。

ジムではタイガーマスクファンも含め、既に400人以上の人達が入門していました。ただ格闘技を経験済みでプロを目指して入門された方達は、シューティングがまだ競技として確立するまでには時間を要しそうだったので、既存の格闘技に転向していく人も多くいました。

それでも打撃、組技、寝技すべてを駆使して戦う格闘技(当時は今でいう総合格闘技という言葉も無かった)が完成すればすごい物になるという確信を胸に、私はその理想のまだ見ぬ格闘技向かって情熱と夢だけで毎日猛練習をしていました。

中でも厳しく自分を一回り大きくさせてくれたのは強化合宿でした。精神的にも肉体的にも限界を超えるような練習を、幾度となく乗り越えてこれたのは、佐山先生の指導はとても厳しい中にも必ず科学的なロジックがあり、格闘技の本質を実感できたからです。

プロ化されるまで、クール戦と呼ばれる試合を7戦して徐々に経験を積んでいきました。

プロ化されるまでのこの時代は、総合格闘技確立に向けてルールも試行錯誤しており、プロになるための最終クール戦で、アクシデントが起こりました。

オープンフィンガーグローブ(指が出ていて掴める小さなグローブ)を付けての試合なので、目に指が入らないよう、覆面にフェースシールドの付いた防具をつけていましたが、大会前半で防具が壊れて使えなくなってしまいました。そのため休憩後の後半戦から素顔で戦うことを余技なくされました。

私は後半戦1試合目でした。素顔でのオープンフィンガーグローブをつけて殴り合う場面をこれまで見たことがなかったので、決して大袈裟ではなく死ぬことも覚悟して臨みました。が、実際には視界も良く気持ちよく戦えました。

またこのフェースシールドが取れたことで、プロ化第1戦は選手の表情が良くわかる(今となっては当たり前ですが)迫力のあるよりプロらしい競技としてステップアップできました。決死の覚悟が実を結びました。

そしてついに念願かなって、1989年佐山聡先生より初代修士(シューター)として認定され同時にプロデビューを果たしました。

チャンピオンになって認められたい

プロ当初は、KO負けして救急車で搬送され半年間欠場となったり、ひどい負け方をすることもあり厳しい物でした。

それでもこれまで生きてきて目立った実績も得られなかった自分には、誰からも認めてもらえ自信を持たせてくれるものは、チャンピオンになることがすべてだと思い、ひたすら練習に励みました。

また、フィジカルトレーニングを取り入れたり、レスリングの師匠となる木口宣昭先生との出会いにより、体幹やレスリング力が強化され、徐々に勝っていけるようになりました。

タイトルマッチ2度目の挑戦、1991年10月17日大阪府立体育会館にて修斗第3代ミドル級チャンピオンになることが出来ました。長年夢にまで見てきたことがついに実現。

この勝利の時の達成感、満足感、何とも言えない幸せな気持ちで満たされ、2週間顔がにやけたまま戻らなかったことを今でもよく覚えています。

そしてもう一つ大きなタイトルとしては第1回シューティングオープントーナメントで優勝。初めて大きな賞金を手にしました。感極まって勝利者インタビューの時に

「男だったらひとつにかける~」(銭形平次の歌)

と修斗一筋熱くかけてきた想いをありったけの声で歌い上げました。快感でした。

そして初めて外国人選手(USA修斗エリック・パーソン選手)と激闘を繰り広げるなど(引き分け)、選手としては完全燃焼することができました。

怪我の悪化もありましたが、選手としてやり切ったことや、顔面へのグラウンドパンチが解禁され(それまではグラウンドでは打撃に制限があり、ほぼ極めや締めの攻防でした)新しい波がきたこともあり、後進の指導・競技の普及に力を入れようとバトンタッチすることを決断し、1997年に引退しました。

引退式を行った後楽園ホール大会は、初の超満員となっていました。そして引退していく私は、後進へ伝えたい想いで感極まり

「君のゆく道は希望へと続く、空にまた日が昇る時、若者はまた歩き始める。修斗が勝つまで、世界に勝つまで、己に勝つまで」(若者たちの歌)

とまた熱唱しました。快感でした。

この競技を日本中に広めたい

引退後は木口道場修斗教室の代表として4年ほど後進の指導にあたりました。新ルール(グラウンドパンチ)に対応できるようポジショニングを指導者として必死に勉強しました。

バーリトゥード(何度もありのポルトガル語)JAPAN(VTJ)という修斗 主催の大会で日本勢が大きく負け「日本最弱」とマスコミにレッテルを張られてしまい、それをいつか払拭したいという思いが強く芽生えました。

「修斗は総合格闘技のスポーツです」と謳っても、より過激ななんでもありの大会で勝てなければ誰からも信用されません。

ポジショニングを体系的に取り込むことで、日本は絶対強くなれると思っておりましたが、単に技術改革だけではなく、同時に競技人口も増やさなければならないと強く思いました。

当時総合格闘技が関東地区でしか普及していなかった修斗を日本中に広めていく手始めに、関西地区でセミナーや練習会を開くことになりました。

教えるにあたって大事にしたことは「修斗の理念」「競技スポーツとして広めていきたいこと」でした。そして「あそこのジムから一本取ったた」ではなく、互いを尊重し高めあっていこうと伝えました。

みんなでこの新しいスポーツを開拓していこうと、各ジムの協力も徐々に増え、5回目の開催で参加者が80名ほど集まるようになりました。

そこで機は熟したと感じた私は、関西で初のアマチュアのワンマッチ大会を開くことにしました。その当時、ファッションコラボでお洒落路線の東京に対して、これから盛り上げたるという地元魂を込めて、コテコテ路線で大会名は「浪速(なにわ)フリーファイト」と名付けました。

東京からレフリーを呼び、ゴング、グローブ、ヘッドギアを鞄に詰め込んで、一人新幹線に乗りサウナで一泊し、仲間の協力もあり何とか大会開催にこぎつけることができました。

関西の選手はオリジナリティにあふれ、気持ち良いファイトを繰り広げ大盛況の大会となりました。

その後も、2回、3回と大会が盛り上がっていったので、こうなったらもっと西まで広げようと、西日本オープントーナメントを開きました。関西・四国・中国・九州から集まり、更なる大盛況となりました。

この大会からのちに、プロで大活躍するスター選手が続々と誕生してゆくこととなりました。

西日本大会を成功させたことに続き、東日本でもオープントーナメントを開催。こうして西日本大会、東日本大会が出そろいました。

その後協会主催で行われた全日本選手権ではミドル級決勝で大阪と淡路島の選手が戦かいました。それを見て、修斗が全国に広がったと感じ嬉しく思いました。

アマチュアが充実してきたので、プロに昇格する選手も増えてきました。そこで、次にプロの選手として個性や実力を発揮できるように、プロのの若手登竜門となる大会を開くことにしました。

なんといっても選手には経験が必要です。程よい場所を探した結果、世田谷区にある北沢タウンホールを借りることができました。大会名はやはり修斗はおしゃれ路線だったので、下北沢なだけに渋く「下北沢修斗劇場」と名付けました。

このシリーズで最も思い出深い大会は、下北沢修斗劇場第4弾(浪速からの挑戦状)。関西でセミナーを開きアマチュアが育ち、遂にプロの関西対関東で戦う5vs5マッチが実現、関西の選手達の強さと、関西ならではのキャラクターや魅力を見せつけてくれた素晴らしい大会でした。

この大会はその後新宿区の新宿FACEへと移し、「Shooting Disco」シリーズとして続いていきました。

2000年には格闘技の殿堂後楽園ホールで大会を主催。メインイベントに桜井マッハ速人選手のタイトルマッチを組むことができたのは嬉しい限りでした。

修斗の精神を伝承したい

2000年8月木口道場から了承を頂き、独立し世田谷区松原に「GUTSMAN・修斗道場」を開きました。ガッツマンの由来は現役時代のニックネームMr.ガッツマンからです。

そのころ考えもしなかった修斗ブームが訪れていました。VTJでの海外選手とのわかりやすい対決図式、これまでにないスポーツとしてのかっこよさ、ファッションとコラボによるスター選手の出現もあり、GUTSMAN・修斗道場でも日本全国から柔道、レスリング、空手等格闘技のバックボーンのある若人達が一花咲かせようと集まってきました。

私は佐山聡の弟子として、初代シューターとして、修斗の素晴らしさと強さを証明したい想いで、GUTSMANをスタートしました。

それに付け加え1つは勝つだけでなく「人が感動するような試合ができる強いハートを持った人を育てる」。そして2つ目が個人競技であっても全員で強くなる。例えば打撃出身者と組技出身者が互いを尊重し、教え補い合う空間作りに心掛けました。

年に1度は佐山聡直伝の強化合宿を行い、苦楽を共にし絆を深めていきました。

アマチュア修斗の大会には1大会で20人以上のGUTSMANの選手が参加し、チーム一丸となって戦い抜きました。定番もんじゃ焼き屋さんでの打ち上げは、皆緊張からの解放された気持ちで大いに盛り上がり「The青春」でした。

そのかいあってプロに昇格する選手が続々と出てきました。GUTSMAN主催大会でどんどん経験を積ませ、トップ選手となっていきました。

最終的にはUFCファイター、修斗チャンピオン、その他格団体のチャンピオンを多数輩出していきました。本当に輝かしく楽しい毎日であり、ベストを尽くしてきました。

思い出深い試合は数々ありますが、2002年アメリカ・ラスベガスでの海外遠征で、桜井マッハ速人選手のセコンドとしてウェルタータイトルマッチに臨んだ試合。

直前の怪我で勝利は出来なかったものの、本当に魂のこもったすばらしい試合でした。海外で戦うことの難しさを知り、またリングとは違う金網(オクタゴン)での戦い方を学ぶこととなりました。

修斗の力で元気にしたい

そして2022年、GUTSMANにとって大きな転機が訪れました。東京都都市計画により道場のあるビルが取り壊されることとなったのです。22年間続けてきた明大前の道場を閉鎖し、道場を移転せざるおえなくなりました。

明大前の修斗道場は私と弟子たちの青春でした。2000人あまりの道場生との泣き笑いは忘れられません。総合格闘技修斗の普及・発展に心血を注ぎ、またたくさんの強豪選手育成輩出できたことで、全てをやり切り、全てが終わったと思いました。

明大前道場最終日、閉館を聞きつけたOB達がやってきました。私は有無を言わせず、Tシャツ・短パンを渡し、みんなで寝技スパーリングをやらせました。それが一番です。

OB達を集めて伝統の大木屋(もんじゃ)で同窓会を開催しました。本当にいろいろな事がありましたが、もう一度皆がこうして集まれたことで、GUTSMAN史上最高の1日であり、最高のフィナーレとなりました。

最後にお世話になったビルのオーナーにお礼のあいさつに行ったときには想いがあふれ涙をこらえるのに精一杯でした。

「30代そこそこの若造に駅前の一等地を格安で、また格闘技という難しい業種にも関わらず22年間も快くお貸し頂き、オーナーの人情に大変感謝しています。ここですごせた30代、40代は私にとっての青春であり、宝物です。これまでどうもありがとうございました。」

脱力感・寂しい気持ちも当然ありましたが、OBや道場生達からパワーももらい、とにかく道場を継続することにしました。しかしこのご時世、格闘技という業種に貸してくれる物件も無く、10件以上断られ閉館後半年ほどして新しい移転先が同じ世田谷区の経堂に決定しました。

明大前の道場をやり終え、年齢と経験を重ね感じたこと。それは「格闘技選手としての強さとは別に、人生を生きていく上での強さが必要だな・・・」と言うことです

そしてその「強さ」の前提にあるもの元気な心と健康な身体なのです。10代、20代強さを求め存分に競い合ってください。もちろん30代でも。

しかし30代、40代を過ぎる頃から仕事や家庭で責任ある立場にあることが多いため、ストレスが溜まったり、忙しさで運動不足におちいりがちです。だからこの時期こそ、格闘技で元気になって貰いたいのです。

格闘技にはテストステロン(自信や行動を高めるホルモン)、セロトニンやドーパミン(幸福物質)の値を高めることが科学的に判明されていますが、私達はそれを当たり前のこととして実感してきました。

格闘技を趣味、あるいはライフワークとして続けることで、気持ちが前向きになり、更に身体も軽やかに動くようになります。

責任ある年代の方々が、元気な心と身体を併せ持つことで「鬼に金棒」というのが私の考えです。

もちろん強くなりたい、上を目指したいという方には、数々のチャンピオンを育成・輩出してきた実績をもとにしたアスリート用メニューを提供できます。

ただこれからは格闘技の本質的な価値を守りながらも、安全で誰もが楽しめる健康的な心と身体を手に入れるための、より革新的なトレーニングプログラムを創造していきます。

どうか共に「アクティブでかっこいい」人生を目指していきましょう。

現代・ストレス社会の中で格闘技を通じ、心身を鍛え共に汗を流す。そして、栄養ドリンクではありませんが「元気はつらつとした毎日」を会員の皆様に過ごして頂きたい。それが今の私の素直な気持ちです。

新たに始まるスポーツアカデミーGUTSMANは格闘技のチャンピオン育成ジムから今後は人生のチャンピオンになるためのパートナーへと進化していきます。どうぞよろしくお願い致します。